ふしぎブログ

ムニャムニャ

かなしみ、そしてカオナシ…

小川 日本語の「かなしい」という言葉には、いろいろな意味がありますものね。

河合 「悲しい」や「哀しい」、「愛しい」も「美しい」も全部「かなしい」ですからね。

 

(『生きるとは、自分の物語をつくること』小川洋子 河合隼雄 94頁)

 

 

二年前に書いた自分の日記をたまたま読み返したところ、詩人アンリ・ミショーについて綴っており、その内容がやはり暗かった。彼の詩のなかから、生まれたくなかったという思想を感じさせるような一文を書き写して、ミショーは管理・公立化された寄宿舎で幼少期を過ごしたために、このような一文を綴ったのではないか、という分析まで添えられていた。もちろんこの分析は一面的なものに過ぎないのだが、私は二年前の自分がすでにミショーの詩に魅入られていたという事実に小さな喜びを感じてしまった。俗世の裏側にある甘美なかなしみを味わうことができれば、私もすこしはこの世界のことが理解できたと言えるだろう。

 

一昨日、『千と千尋の神隠し』を友人と観て本当にすごく楽しかった。子供の頃に観たときは主人公である千尋に感情移入していたが、二十歳を過ぎてから観ると、千尋以外の登場人物の心情もなんとなく伝わってくるから不思議だ。昨年の『シン・ゴジラ』があまりにも良い映画だったので気持ちがジブリよりも断然カラーに行きがちな昨今であったが、観返してみると、やっぱりジブリっていいなーという気持ちになってしまった。『君の名は。』も素晴らしかったけど、『名探偵コナン 純黒の悪夢』もすごく良かったけど、やっぱりジブリっていいよねー。

 

千と千尋の神隠し』には個性的なキャラクターがいろいろ登場するが、なかでも「カオナシ」の存在はかなり妙である。子供の頃に初めてカオナシを見たときは、かわいい…でもちょっと不気味だ…くらいにしか思わなかったが、二十歳を過ぎて見ると、カオナシのことが全部理解できてしまったので愕然とした。カオナシとは何か? 2017年になった今でも、ネット上では様々な憶測が飛んでいるが、宮崎駿は、カオナシはみんなの心のなかにいる、などと言っている。恐ろしいよ…。

 

こうやって人はカオナシを通して、カオナシを学ぶのだろう……。 と書くと、「やたらカオナシに熱い人」に思われるかもしれないが、やはり子供の頃の自分と今の自分との間には、十年と少しの時間が流れていたことを、私は画面の向こうのカオナシに知らされたように思えたのだった。

 

 

 

千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]

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生きるとは、自分の物語をつくること (新潮文庫)

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ADHDのうらしまたろう

発達障害のうらしまたろう

発達障害と一口に言っても色んなタイプがいると思うんですけど、自分の経験をもとに書いてみました。


ある日、うらしまたろうは、浜辺で子供たちが、かめをいじめているのを見ました…。

たろう「わー。どうしよう……助けようかな? 警察を呼ぼうかな? あわわ…」

うらしまたろうは、警察を呼ぼうとしましたが、パニックになっていたので、番号を忘れました。

たろう「とりあえずGoogleで検索……。よし、これだな、かけてみよう…」

しかしながら、うらしまたろうは、警察もすぐに来ないだろうし、面倒になって、突然Googleで番号を検索するのをやめました。

たろう「かめをいじめるのはやめなよっ」

たろうは、さっきまでアレコレ悩んでいたのに、特に何も考えずに、子供たちのなかに割って入っていきました。
子供たちはかめをいじめるのをやめました。

子供たち「あ、はい…。それにしても、お洒落ですね」

意外なことに服のセンスが良いたろうは、子供たちに褒められました。

たろう「ユニクロで買ったんだ」
子供たち「おしゃれー」

子供たちは、うらしまのファッションセンスを褒めて、浜辺を後にしました。

たろう「ああ、怖かった。かめさん、調子はどうだい?」

助けてもらったかめは、言いました。

かめ「君、竜宮城に来てみないかい? さっき助けてもらったお礼なんだ」

たろうは言いました。

たろう「うーん、でも心配だな……。いや、でも、まあ、試しに行ってみよう!」

たろうは好奇心が人一倍強いので、よくわからないけれど、かめについていくことにしました。

たろう「あっ、でも。ちょっと待って、スマホ忘れたっ」
かめ「確認しとけよ……」

かめはたろうのために、いったん浜辺に戻りました。

たろう「ごめんごめん……」
かめ「しっかりしろよな」
たろう「あっ、今度は財布を忘れた」

かめはたろうのために、いったん浜辺に戻りました。

たろう「ごめん、ごめん」
かめ「しっかりしろよ~」

かめに乗せられて、うらしまはりゅうぐうじょうに着きました。

たろう「おおっ、これが竜宮城か……」
かめ「そうだよ。タイヤヒラメの舞い踊りも見ていきなよ」
たろう「なるほど。これは、中国の神仙思想に基づくのかな?」

意外なことに、子供の頃から思想に興味があったうらしまは、それが神仙思想に基づくものだということを言い当てました。

かめ「なんてするどいんだ……恐ろしいよ……」

かめは先程までのうらしまの無能ぶりを見ていたので、若干驚きました。

たろう「あっ。トイレに行きたい。すいません、トイレはどこですか?」
かめ「ほら、あのヒラメのそばにある、小さな入り口だよ。その先を右に曲がるとあるよ」
たろう「わかりました! ありがとうございます」

たろうは、入り口に入ってから、左右に分かれた道を見て、考え込みました。

たろう「えーと、ヒラメの目ってどっち側についてるんだっけ。カレイとどう見分けるんだっけ。カレイが左だっけか。うーん。……あれ? トイレって右って言われたっけ、左って言われたっけ????」

たろうは戻って確認したほうが良いと思いつつ、自分の直感を信じて、左の道に行きました。たろうは、簡単な道でしたが、迷いました。

たろう「困ったな、、、」

たろうは迷いに迷ったあげく、無事トイレに辿り着き、かめの元に戻りました。

たろう「ふう、迷いに迷っちゃいましたよ」
かめ「あんな簡単な道で、どうして……」

たろうはタイやヒラメの舞い踊りを見つつ、ぼーっとしていました。

たろう「うーん、眠い。そろそろ家に帰ろうかな……。」
かめ「よし、わかった。おいらが浜辺まで送って行ってやるッ」
たろう「えー。そんなそんな良いですよ、帰り道ぐらいひとりで行けますって!」
かめ「さっきトイレで迷ってたくせに……」

たろうはふたたび、ボーっとしていました。
たろうの元に、うつくしい乙姫さまがきて言いました。

乙姫「村に帰って困ったことがあったらこの玉手箱をあけなさい」
たろう「はっ。ぼーっとしていた。すいませんもう一度お願いします」
乙姫「村に帰って困ったことがあったらこの玉手箱をあけなさい」
たろう「わかりましたー」

たろうは玉手箱を受け取りました。

村に帰ったうらしまたろうは、さっそく家に帰ろうとしました。
たろう「最近この村に来てなかったから、道を忘れてしまった……」
たろうはふたたび道に迷いました。

たろう「もう、道に迷って、ここがどこなのかわからない。とりあえず、まあ、タクシー呼ぶか」

うらしまたろうは、困ったときのタクシーを呼びました。
タクシーが来ました。
たろうはタクシーに乗って、家に帰りました。

家に帰ると、家はすっかり荒廃していました。

たろう「どうしたものか……。そうだ。こんなときこそ、玉手箱をつかおうっ」

たろうは、玉手箱を開けることにしました。しかし、玉手箱が見つかりません。

たろう「しまった! 玉手箱をタクシーのなかに忘れた!」

ガーン……。

 

おしまい(._.)

 

 

 

 

 

ちょっとしたことでうまくいく 発達障害の人が上手に働くための本

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浦島太郎

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抱朴子/列仙伝/神仙伝/山海経 (中国の古典シリーズ 4)

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食欲の秋とデレク・ジャーマン

幼い頃から食事をあまり摂らずに生きてきた気がする。朝は食欲がないのであまり食べられず、昼の給食に関しては、もともと少食だったので一定量を食べなければならないというプレッシャーを感じてますます食べられなかった。夕食もサラダだけ好んで食べて、他はあまり食べなかった。
こんな自分であるが、嫌いな食べ物はない。さすがにおぞましい物が出てきたら拒否するが、それ以外ならなんでも食べられる。子供が苦手とするピーマンや人参はむしろ好物だったし、食べる気力があまりになかっただけなのである。
大人になってからも、食べるのが苦手だと感じることがあった。食べることが楽しみではなく、単純作業のように感じる時期があった。なんだか自分が人間という生命体として生まれて、食べるという行為を繰り返して死を迎えるという事実に虚しくなったこともあった。そしてこういう心の絶望をどこかで大切だと思ってしまう自分もいて、余計に虚しくなった。

 

少し前、デレク・ジャーマンの『ウォー・レクイエム』という映画を観た。悲惨な戦争の映像にブリテンの鎮魂歌がずっと流れていたのが印象深い。むかし友人が「ジャーマンが撮る包帯ってセクシーだよねえ」と言っていたが、この作中に出てくる医療器具は確かにセクシーだった。包帯、注射器、薬瓶、担架、白いカーテン――そういうものはいつだってセクシーで美しい。実際に病院で見るとまったくそんなことないけれど。人はどこかで精神的に不健康なものを求めてしまうのかもしれない。

余談だが、同監督の『ヴィトゲンシュタイン』という映画も二十歳の秋に観た。作中での色彩の使い方があまりにも異常だったので驚愕した。なんというか、百円ショップのメイドインチャイナをかき集めたような代物なのだ。原色ギトギトなのに、なぜか落ち着きがある。そこにあるべき場所にその色がきちんと嵌っているような感覚があった。好みの作品ではなかったが、印象に残っている。

 

 

 

 

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二つの場面ーーバイオリン弾きとベルイマン

ぼくらが
電車通りを駆け抜けると
巻きおこる
たつまきで街はぐらぐら
おしゃれな風は花びらひらひら
陽炎の街
まるで花ばたけ

(はっぴいえんど「花いちもんめ」)

 


ここのところ、小学校時代に読んだある本の場面が、何度も頭をよぎっている。しかし書名がどうしても思い出せないので困っている。妻子持ちの貧しいバイオリン弾きの男が出てきて、軍歌を弾けばすこしは金になる、と言われるも、「僕のバイオリンで軍歌は弾きたくない」と拒むのだ。妻も夫の気持ちを察してそれ以上何も言わない。しかし家計が切迫したために、彼は仕方なくバイオリンで軍歌を弾くことにする。街の広場で彼は軍歌を弾きはじめるが、途中で諦めて、やがて美しい外国の曲を奏でていく。その場面だけが、最近、妙に頭から離れない。どうしたものか。

小学校にあがって間もない頃から、私はすこし難しい本を好んで読んでいた。ほかの子が絵本を読むなかで、一人だけ活字本を読んでいた。と言ってもちゃんと読めていた訳ではなく、文字を目で追っているだけに過ぎなかったのだが。しかしそれでも本を読むという行為には特別な愛着があった。最初から最後まで理解して本を読まなくても、ひとつでも心に留まったものが見つかればそれでいいという、わりにいい加減な読書方法もそこで身につけてしまった。でも、まあ、好きに読むのがいちばん良い読書法なんじゃないかとも思う。

 

冒頭でバイオリン弾きの出てくる場面について書いたが、もうひとつ、最近特に思い出す映画の場面がある。
スウェーデンの映画監督、イングマール・ベルイマンの『魔術師』という映画に、老婆と若い娘が椅子に座って話をしている場面がある。老婆は若い娘に優しい口調で語りかけている。そこでは、老婆の眼も、老婆の口ぶりも、老婆のジェスチャーも、すべてが優しさでできている。見た感じの印象だが、娘と老婆には五十歳ほどの年齢の差があった。しかしここでいう年齢の差とは、単に時間の差ではなく、魂の年齢の差のように私には感じられた。人間のうちにある神的な霊魂を、ベルイマンは確かに捉えたのだろう。

 

 

 

風街ろまん

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夜を歩く

1年ほど前に早稲田松竹エルマンノ・オルミの『木靴の樹』という映画を観ました。文益小作農場に住む人たちの物語です。穏やかな農場の映像は絵画的で、ぼんやりした夢のような良さを持っています。でも動物屠殺シーンがリアルで怖かった。生きることは食べること、生きることは祈ること、生きることは他者と関わること…そういう大切なことが描かれている美しい映画です。

 

前置きはこれくらいにして、少し前に、その映画からインスピレーションを受けて詩を書きました。折角なので掲載することにします。

 

 

 

夜を歩く

 

まだ咲いたばかりの
サフランの花を
そっと摘みとるときの
燈火の幻

真夜中に
きみを探しに表に出ると
マンフレディーニのピアノ曲
壁に反響している

子供のささやく声が
そこらじゅうから聴こえる

(壁の近くは 暖かいから
 木を植えるときはそこに植えよう)
(夢の近くに 家をかまえて
 いつでも行き来できるようにしよう)

月はだんだん西へと落ちていく
月のまわりは まるで
幻のように明るさを保っている

絵本をめくるときの
小さな喜び
疲れきって
休息を乞うときの
夜への安らかな気持ち

月は朝になると消えてしまう
魔法でも何でもなく

 

(ある午後に)

昔書いた詩を掲載します。余り上手く書けているという感じでもないんですが、自分で気に入っているので、掲載しちゃいます。午後を題材にした詩です。

 

 

(ある午後に)

 

過ぎゆくものが
すべて実体を持たないように
思える午後

子供たちの午後と
私の午後に
どんな違いがあるのかを
私は知りたい

横になりながら
そっと耳を澄ませると
部屋じゅうは
小鳥たちのレクイエムで
いっぱいになっている

そして
昼間には消されている
蛍光灯の灯りだけが
真上に吊るされている


(ある午後に
目を覚ますと
手の話を
している人がいました)

子供の手、
大人の手、
まほうつかいの手、
聖母の手、
友人の手、
いつもそれは手のように見えているけれど
本当は手ではないのです。


手はときどき
ひとりでに部屋の隅に行って
退屈をもつかまえます。

手がつかまえるものは
役に立たないものばかり

けれど
お月さまに届ければ
きっとよろこばれることでしょう。

 

退屈のなかには

いつも死のにおいがした

 

誰かが忘れていった
指の痕跡を

私は
目覚めて、
拾いあつめる。