大阪紀行―西に聖地あり―
コペル君は、何か大きな渦の中に、ただよっているような気持でした。
「ねえ、叔父さん。」
「なんだい。」
「人間て……」
と言いかけて、コペル君は、ちょっと赤くなりました。でも、思い切って言いました。
「人間て、まあ、水の分子みたいなものだねえ。」
「そう。世の中を海や河にたとえれば、一人一人の人間は、たしかに、その分子だろうね。」
「叔父さんも、そうなんだねえ。」
「そうさ。君だってそうだよ。ずいぶん、ちびの分子さ。」
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』 17頁
「俺、自分が男でよかったと思うよ。女だったら、翼に惚れてたもん」
朝十時半、屍派のロックスターの下村猛さんと、大阪の串カツ屋で飲んでいる。すでに彼は昨夜から朝にかけて飲んでいたらしい。本物のアル中の姿を見る。
東京から新幹線で三時間半、上田信治さんと翼さんのトークショーを見に大阪まできた。大阪に着いてからは翼さんや薬夏ちゃんたちと飲み、その後トークショーに行って、普段西にいて会えない人たちと飲んで喋って楽しい時を過ごした。三次会でカラオケに行って、小さなビジネスホテルに宿泊した。チェックアウトの時間が来て、このまま東京に帰ろうかと思っていたところ、朝食を食べようと下村さんから誘われて、大阪で飲むことになった。
下村さんは昨夜と同じく、革ジャンにサングラスというとてもロックな格好で現れた。以前、「今日は賞金王だから…」とゴールドの上下ジャージを着ていた翼さんの姿を彷彿させる。
串カツ屋のカウンター席で、ビールを飲みながら下村さんが訊ねる。「ふしぎちゃんは、翼に惚れたりしないの?」私はサーモンの刺身を食べながら、うん、大好きだよ、と答える。下村さんは、付き合って間もない恋人の話をするように翼さんについて語りはじめる。「格好いいよね…」さらには、「アイツは俺が買えなかった舟券も買ってくれるんだよー」と、ギャンブルを通じての関係性も明らかになる。
それから話題は昨夜のことになって、下村さんが途中で帰ったカラオケで、自分が高田みづえの「硝子坂」を結構上手く歌えたことを報告した。
「硝子坂はね、昔俺がホストしてたときにお客さんがよく歌ってたから、覚えてるよ。最後の硝子坂♪ の歌詞を、俺の源氏名に変えて歌ってくれてたんだよ」
実のところ、今の仕事が決まる前、源氏名を使う系のアルバイトを私もした事があった。基本的には楽しい仕事なのだが、嫌なことも稀にあった。「大変よね、うん。えらいよ君は」と言われたことが少し嬉しかった。下村さんは一見ワルそうにも見えるが、実際話してみると心温かくて情に脆く、たいへん会話上手な人なのである。
一番えらいのは伊達巻を考へた人 咲良あぽろ
ゆつくりなら火箸でも大丈夫 とうま
ボートの結果知り泣き崩れる母 下村猛
(『アウトロー俳句』より引用)
串カツ屋のあとお寿司までご馳走になった。そして折角なので、島田牙城さんのいる邑書林に寄ろうという話になった。邑書林は、北大路翼の第一句集『天使の涎』を出した出版社なのである。どうやら牙城さんは、日本酒と海苔を用意して我々を待ってくれているそう。梅田でタクシーをつかまえて、尼崎まで向かう。聞けば、下村さんは新幹線とタクシーしか使わない男らしい。
好きなのは少し壊れてゐるところ 白熊左愉
もう会はぬ奴に鯛焼き買うてやる 才森有紀
柘榴から生まれる皮膚のない子供 照子
(『アウトロー俳句』より引用)
タクシーの車窓から、「尼崎方面」と書かれた看板が見える。車は大阪から兵庫に入ったらしい。兵庫と言っても、風景は先ほどの大阪とさして変わりはない。しかしどこか特別な場所に向かうというほのかな期待感で車窓は満ちていた。
「俳句をする奴は俳句だけじゃだめなんだよ。色んなことできないと。ボートとか」
話は少し脱線するが、大阪初日に、みんなで飲んでいるときに翼さんが言っていた言葉である。文脈的には、他のジャンルもやりつつ俳句を詠むのは良いことという意味だったのだが、ボートとか言うのでつい笑ってしまった。
屍派は俳句以外にも、絵や音楽など様々な才能を持つ人が集まっている。誰も、「俳句だけをやるべきだ」とか言う人はいない。家元自身の懐の深さが、屍派の俳句の魅力のひとつになっているのだと感じた瞬間だった。
好きといふ変な日本語春うらら 北大路翼
胸中に古き地図あり日向ぼこ 黄土眠兎
『天使の涎』の聖地・邑書林へ
タクシーで邑書林の前まで来たわれわれの目の前に、「遅いよ! お前ら!」と鈴を二つ持って牙城さんが現れた。私と下村さんに一個ずつ鈴を手渡す。尼崎の路上に鈴の音が鳴り響いた。
邑書林にて
『天使の涎』を見つける
逆光で牙城さんを撮影。
邑書林はマンションの一室にあり、生活スペース兼仕事場という感じだった。奥の部屋にはずらりと句集の並んだ本棚があり、来た者を感激させていた。数ある句集のなかに、ピンク色の表紙の『天使の涎』を発見して、嬉しくなった。
牙城さんとはその日初めて会って話したが、チャーミングで気さくな方だった。日本酒を飲みながら、普段は看護師をしている下村さんから死の話を聞いたり、屍派の膣ギロチン(ちーちゃん)の俳句が素晴らしいという話をしたりした。それから眠兎さんが来てくれて、眠兎さんの持ってきてくれたサンドイッチを食べて、のんびりした時間を過ごした。「こういうのんびりした時間がいいわねえ」と眠兎さんが言っていて、本当にそうだなあと感じた。部屋の入口には昨夜のトークショーで、牙城さんが翼さんに貰っていたサイン入りの、ジーンズの上着がかけられていた。
眠兎さんにサインを書いてもらいました。
牙城さんにもサインをもらいました!「大好きな櫻であれば振りかへる」
大阪から東京に戻ると、雨も降っていて、春だというのにとても寒かった。翌朝、仕事に行くと、一昨日の夜は雪が降ったことを告げられた。ちょうどその頃といえば、トークショーに行って、屍派のテーブルでストロングゼロを飲んでいたことを思い出す。
本当に楽しい二日間だった。また行きたいナ。
*黄土眠兎『御意』(限定500部)、邑書林、2018年。