ふしぎブログ

ウーン ムニャムニャ

クーリンチェを観に行きました

※ネタバレあります。もしこれから鑑賞する予定のある方は、またあとで読んでください( ; ᴗ ; )

 

 

エドワード・ヤンの『ヤンヤン 夏の想い出』という映画に、少年が祖母の葬式で、祖母への手紙を音読する場面がある。いや、葬式というより、葬式の準備がなされた葬儀場と言ったほうが適切な気がする。

自分も人生の中で葬式を何度か経験したけれど、葬式には悲しみだけでない、穏やかな時間もあるように思う。お通夜のときは、みんな本当に悲しみに暮れるけれど、案外、葬式当日、準備がみんな済んで、親戚を待っている時間は、ごくありふれた休日のようにあっけらかんとしている。少年が祖母への手紙を読んでいたのは、そういう時間だと思う。

映画に出てくる葬儀場は、夏の光がきらきらと差し込んでおり、やはり穏やかな時間だった。生者にも死者にも、季節は均等に廻り来るものなのだと漠然と感じた。

新宿シネマカリテでこの映画を鑑賞してから半年経ったが、おそらく私は生涯この場面を忘れることは無いと思う。

ヤンヤン 夏の想い出』には、そういう印象的な場面がたくさんある。電車の車窓から見える、夜になりかけのビル群だったり、アナウンスが鳴り響く、混雑した夕方の駅だったり......。

でもそれらは全部「想い出」なのだ。もう二度とその場所に戻ることはできない。それが現在よりもずっと美しく思えても、やはり思い出なのだ。

 

 『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』が見られると聞いて、私は本当に嬉しかった。前述した『ヤンヤン 夏の想い出』と同じエドワード・ヤン監督の作品で、いつか観たいと思いつつ、この映画の版権には大人の事情があるらしく、ああこれは一生観られないかもな…と思っていた。それが観られるのだから本当に嬉しい…と思ってチケットを前日購入した。当日、ジャスミンティー(台湾を意識)とチョコレートを買い、3時間57分に渡る、牯嶺街少年殺人事件の鑑賞に備えた。

上映開始。

牯嶺街少年殺人事件

 という、真っ赤な画面に映画のタイトルが浮かび上がる。その赤い画面が余りにも美しい。

 

『牯嶺街少年殺人事件』は、夜間高校に通う少年・小四(シャオスー)が、不良グループ「小公園」のボスの彼女・小明(シャオミン)と出会い、彼女を殺してしまう話である。ちなみに、1961年に実際に少年がガールフレンドを殺害した事件が基となっている。

 

映画の冒頭には次のような説明がテロップで入る。

1949年前後 数百万の中国人が

国民党政府と共に台湾へ渡った 

安定した仕事と生活を求めてのことだった

未知の土地で動揺する両親の姿に少年たちは不安を覚え 

グループを結成し自己を誇示しようとした

あまりにも簡素な説明なので、その削ぎ落とされた説明にもひりひりとしたものを感じる。この説明通り、台湾という未知の土地に両親たちは困惑している。やはり、大多数の人は、台湾には来たくは無かったのだ。そしてもといた場所に帰りたいと願っている。この映画の台湾は、教育をはじめとして、すべてが上手く行っていない。というより途上なのだ。本当に苦しいものが多いのだ。大人たちが苦しいので、子どもたちもそれに飲み込まれて、歪んで傷ついている。

 

 『トリュホーの思春期』という映画が私は大好きで、その映画のことをクーリンチェを見ているときに少し思い出した。学校という枠の中でうまくやれず、でもそれでももがき続けるしかなくて、どんなに苦しくても、少年は大人になるまでは時間がかかる。だから、しばらくは少年でいなければならない。その時間は辛いこともあるけれどやっぱり鮮やかで、もう一生その時間に帰ることはできない。大人になったら今よりも辛くならないのだと信じたいが、でも大人になっても生きるのは辛い。でも、それでも人生は美しいと言えるかも知れない。そういうことばかり考えさせられる映画だ。

 

 クーリンチェの主人公・小四も、少年でいることが余りにも辛そうな少年に見えた。大人しめで、不器用で、試験をカンニングされたときも、被害者であるのに、先生に理不尽に減点されてしまう。彼にはそういうことが多い。たまたま見つかって怒られたり、お金を支払うことになったり、とにかくそういうことが多い。でも小四の家族は彼に優しく、こっそり必要なお金をくれたり、父親に関しては学校に抗議してくれたりする。でもその優しさも、上手くいかないことの多い彼にとっては苦しい。小四の眼鏡を買うために父親は煙草を節約すると言う。でもその優しさのせいで、小四は死んでしまいと思っても、家族がいるせいでうまく死ぬことについて考えられないのではないかと思った。

小四は不幸なことが起こると、自らをもっと不幸に、それも衝動的に、不幸へと行ってしまうところがある。だから後に彼が刺殺してしまう小明にも近づいてしまったし、「小公園」にも関わってしまったし、小明を通して、出会わなければよかった人間に会って、いなければよかった場所に行ってしまった。

小明という人物は、本当に不思議な女性だった。人目を引くようなボブカットに、端正な顔立ち。でもものすごく美形という感じでもない、妙な美しさがあるのだ。彼女に運命を任せていれば、どこか別の世界に行くことができる、それでいて彼女の口からは現実に即した発言が出てくる。小四は小明の前でだけ、どこか未知の自分を出しているように見受けられた。

全編を通して、小四は心の奥の闇を隠すかのように、胸にベルトで懐中電灯をつけて歩くことが多かった。彼は懐中電灯が好きなのだ。押し入れの中で、懐中電灯をつけたり消したりして楽しむ。そういう趣味を持っている。

物語終盤、父親が警察に共産党の疑いをかけられて連行される。母親も泣いていて、兄も泣いていて、みんなが泣いている。小四の家族はみんな傷ついている。それでも小四は懐中電灯をつけたり、消したりするのをやめない。そんな小さな懐中電灯じゃ、どこも照らせないのに、彼はそれでも懐中電灯さえあれば何にでもなれると思っている。

小明に会って彼女を殺すシーンの前、彼が映画のスタジオに行くシーンがある。そこで彼は懐中電灯を置き忘れてしまう。その代わりに、同級生を脅すためのナイフを腰につける。もう彼には懐中電灯さえも忘れてしまったのだ。そして、そのナイフで、小明を刺殺してしまう。

彼には殺す気はなかったのだ。小明という不思議な女性が、一瞬、世界の全てに見えたのだ。絶望とか不幸とか、そういうときに見える光は、眩しすぎて直視できない。だからきっと、彼にとってのその瞬間の最善の方法が、彼女を殺すことだったのだ。

この映画は上映期間中に2回見たが、2回目のほうが切なかった。小四が小明を殺害する場面がどのあたりにあるか把握してしまっていたからだ。小四は本当に、小明を殺す気がなかったんだと思う。むしろ、彼女という存在に運命を感じて、優しさを与えたかったのだ。けれどその言葉も、彼女には届かない。そして彼女は余りにも世界そのもののように目の前に立っていた。そしてそれを彼は自らの手で終わらせてしまった。

もしかすると自分も、小四と同じ状況で、同じ歳だったら、小明を殺してしまうかも知れない。殺人をしてはいけないと分かっていても、不幸が続いて、ほんの少しの溝に落ちてしまったら、その世界はどのように見えるのだろう。小四が小明を世界そのものだと錯覚したように、自分も小四が自分の世界の一部のように思えた。

小四の人生は人を殺した後も続いていく。彼は裁判所で一度は死刑判決を受けるも、未成年ということもあって、30歳を前に釈放されたそうだ。その説明がまた、淡々としたテロップでされる。実際の30歳の小四の姿までを映すことなく映画は終わる。

だから、この映画はすべて思い出なのだ。過去の話なのだ。日本人が台湾に残した日本刀で大人たちが襲撃される場面も、ラジオから流れる人の名前が読まれ続ける場面も、すべてが過去のひりひりとした思い出なのだ。だからこそ、この映画のことを何度も何度も思い返す必要があると思った。過去の鮮やかな時間を、何度も何度も思いだすこと、それは苦しいけれど、でも同時に鮮やかなものなのだと思う。

 

 

 

 

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