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ふしぎブログ

ウーン ムニャムニャ

夜を歩く

1年ほど前に早稲田松竹エルマンノ・オルミの『木靴の樹』という映画を観ました。文益小作農場に住む人たちの物語です。穏やかな農場の映像は絵画的で、ぼんやりした夢のような良さを持っています。でも動物屠殺シーンがリアルで怖かった。生きることは食べること、生きることは祈ること、生きることは他者と関わること…そういう大切なことが描かれている美しい映画です。

 

前置きはこれくらいにして、少し前に、その映画からインスピレーションを受けて詩を書きました。折角なので掲載することにします。

 

 

 

夜を歩く

 

まだ咲いたばかりの
サフランの花を
そっと摘みとるときの
燈火の幻

真夜中に
きみを探しに表に出ると
マンフレディーニのピアノ曲
壁に反響している

子供のささやく声が
そこらじゅうから聴こえる

(壁の近くは 暖かいから
 木を植えるときはそこに植えよう)
(夢の近くに 家をかまえて
 いつでも行き来できるようにしよう)

月はだんだん西へと落ちていく
月のまわりは まるで
幻のように明るさを保っている

絵本をめくるときの
小さな喜び
疲れきって
休息を乞うときの
夜への安らかな気持ち

月は朝になると消えてしまう
魔法でも何でもなく

 

(ある午後に)

昔書いた詩を掲載します。余り上手く書けているという感じでもないんですが、自分で気に入っているので、掲載しちゃいます。午後を題材にした詩です。

 

 

(ある午後に)

 

過ぎゆくものが
すべて実体を持たないように
思える午後

子供たちの午後と
私の午後に
どんな違いがあるのかを
私は知りたい

横になりながら
そっと耳を澄ませると
部屋じゅうは
小鳥たちのレクイエムで
いっぱいになっている

そして
昼間には消されている
蛍光灯の灯りだけが
真上に吊るされている


(ある午後に
目を覚ますと
手の話を
している人がいました)

子供の手、
大人の手、
まほうつかいの手、
聖母の手、
友人の手、
いつもそれは手のように見えているけれど
本当は手ではないのです。


手はときどき
ひとりでに部屋の隅に行って
退屈をもつかまえます。

手がつかまえるものは
役に立たないものばかり

けれど
お月さまに届ければ
きっとよろこばれることでしょう。

 

退屈のなかには

いつも死のにおいがした

 

誰かが忘れていった
指の痕跡を

私は
目覚めて、
拾いあつめる。

 

クーリンチェを観に行きました

※ネタバレあります。もしこれから鑑賞する予定のある方は、またあとで読んでください( ; ᴗ ; )

 

 

エドワード・ヤンの『ヤンヤン 夏の想い出』という映画に、少年が祖母の葬式で、祖母への手紙を音読する場面がある。いや、葬式というより、葬式の準備がなされた葬儀場と言ったほうが適切な気がする。

自分も人生の中で葬式を何度か経験したけれど、葬式には悲しみだけでない、穏やかな時間もあるように思う。お通夜のときは、みんな本当に悲しみに暮れるけれど、案外、葬式当日、準備がみんな済んで、親戚を待っている時間は、ごくありふれた休日のようにあっけらかんとしている。少年が祖母への手紙を読んでいたのは、そういう時間だと思う。

映画に出てくる葬儀場は、夏の光がきらきらと差し込んでおり、やはり穏やかな時間だった。生者にも死者にも、季節は均等に廻り来るものなのだと漠然と感じた。

新宿シネマカリテでこの映画を鑑賞してから半年経ったが、おそらく私は生涯この場面を忘れることは無いと思う。

ヤンヤン 夏の想い出』には、そういう印象的な場面がたくさんある。電車の車窓から見える、夜になりかけのビル群だったり、アナウンスが鳴り響く、混雑した夕方の駅だったり......。

でもそれらは全部「想い出」なのだ。もう二度とその場所に戻ることはできない。それが現在よりもずっと美しく思えても、やはり思い出なのだ。

 

 『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』が見られると聞いて、私は本当に嬉しかった。前述した『ヤンヤン 夏の想い出』と同じエドワード・ヤン監督の作品で、いつか観たいと思いつつ、この映画の版権には大人の事情があるらしく、ああこれは一生観られないかもな…と思っていた。それが観られるのだから本当に嬉しい…と思ってチケットを前日購入した。当日、ジャスミンティー(台湾を意識)とチョコレートを買い、3時間57分に渡る、牯嶺街少年殺人事件の鑑賞に備えた。

上映開始。

牯嶺街少年殺人事件

 という、真っ赤な画面に映画のタイトルが浮かび上がる。その赤い画面が余りにも美しい。

 

『牯嶺街少年殺人事件』は、夜間高校に通う少年・小四(シャオスー)が、不良グループ「小公園」のボスの彼女・小明(シャオミン)と出会い、彼女を殺してしまう話である。ちなみに、1961年に実際に少年がガールフレンドを殺害した事件が基となっている。

 

映画の冒頭には次のような説明がテロップで入る。

1949年前後 数百万の中国人が

国民党政府と共に台湾へ渡った 

安定した仕事と生活を求めてのことだった

未知の土地で動揺する両親の姿に少年たちは不安を覚え 

グループを結成し自己を誇示しようとした

あまりにも簡素な説明なので、その削ぎ落とされた説明にもひりひりとしたものを感じる。この説明通り、台湾という未知の土地に両親たちは困惑している。やはり、大多数の人は、台湾には来たくは無かったのだ。そしてもといた場所に帰りたいと願っている。この映画の台湾は、教育をはじめとして、すべてが上手く行っていない。というより途上なのだ。本当に苦しいものが多いのだ。大人たちが苦しいので、子どもたちもそれに飲み込まれて、歪んで傷ついている。

 

 『トリュホーの思春期』という映画が私は大好きで、その映画のことをクーリンチェを見ているときに少し思い出した。学校という枠の中でうまくやれず、でもそれでももがき続けるしかなくて、どんなに苦しくても、少年は大人になるまでは時間がかかる。だから、しばらくは少年でいなければならない。その時間は辛いこともあるけれどやっぱり鮮やかで、もう一生その時間に帰ることはできない。大人になったら今よりも辛くならないのだと信じたいが、でも大人になっても生きるのは辛い。でも、それでも人生は美しいと言えるかも知れない。そういうことばかり考えさせられる映画だ。

 

 クーリンチェの主人公・小四も、少年でいることが余りにも辛そうな少年に見えた。大人しめで、不器用で、試験をカンニングされたときも、被害者であるのに、先生に理不尽に減点されてしまう。彼にはそういうことが多い。たまたま見つかって怒られたり、お金を支払うことになったり、とにかくそういうことが多い。でも小四の家族は彼に優しく、こっそり必要なお金をくれたり、父親に関しては学校に抗議してくれたりする。でもその優しさも、上手くいかないことの多い彼にとっては苦しい。小四の眼鏡を買うために父親は煙草を節約すると言う。でもその優しさのせいで、小四は死んでしまいと思っても、家族がいるせいでうまく死ぬことについて考えられないのではないかと思った。

小四は不幸なことが起こると、自らをもっと不幸に、それも衝動的に、不幸へと行ってしまうところがある。だから後に彼が刺殺してしまう小明にも近づいてしまったし、「小公園」にも関わってしまったし、小明を通して、出会わなければよかった人間に会って、いなければよかった場所に行ってしまった。

小明という人物は、本当に不思議な女性だった。人目を引くようなボブカットに、端正な顔立ち。でもものすごく美形という感じでもない、妙な美しさがあるのだ。彼女に運命を任せていれば、どこか別の世界に行くことができる、それでいて彼女の口からは現実に即した発言が出てくる。小四は小明の前でだけ、どこか未知の自分を出しているように見受けられた。

全編を通して、小四は心の奥の闇を隠すかのように、胸にベルトで懐中電灯をつけて歩くことが多かった。彼は懐中電灯が好きなのだ。押し入れの中で、懐中電灯をつけたり消したりして楽しむ。そういう趣味を持っている。

物語終盤、父親が警察に共産党の疑いをかけられて連行される。母親も泣いていて、兄も泣いていて、みんなが泣いている。小四の家族はみんな傷ついている。それでも小四は懐中電灯をつけたり、消したりするのをやめない。そんな小さな懐中電灯じゃ、どこも照らせないのに、彼はそれでも懐中電灯さえあれば何にでもなれると思っている。

小明に会って彼女を殺すシーンの前、彼が映画のスタジオに行くシーンがある。そこで彼は懐中電灯を置き忘れてしまう。その代わりに、同級生を脅すためのナイフを腰につける。もう彼には懐中電灯さえも忘れてしまったのだ。そして、そのナイフで、小明を刺殺してしまう。

彼には殺す気はなかったのだ。小明という不思議な女性が、一瞬、世界の全てに見えたのだ。絶望とか不幸とか、そういうときに見える光は、眩しすぎて直視できない。だからきっと、彼にとってのその瞬間の最善の方法が、彼女を殺すことだったのだ。

この映画は上映期間中に2回見たが、2回目のほうが切なかった。小四が小明を殺害する場面がどのあたりにあるか把握してしまっていたからだ。小四は本当に、小明を殺す気がなかったんだと思う。むしろ、彼女という存在に運命を感じて、優しさを与えたかったのだ。けれどその言葉も、彼女には届かない。そして彼女は余りにも世界そのもののように目の前に立っていた。そしてそれを彼は自らの手で終わらせてしまった。

もしかすると自分も、小四と同じ状況で、同じ歳だったら、小明を殺してしまうかも知れない。殺人をしてはいけないと分かっていても、不幸が続いて、ほんの少しの溝に落ちてしまったら、その世界はどのように見えるのだろう。小四が小明を世界そのものだと錯覚したように、自分も小四が自分の世界の一部のように思えた。

小四の人生は人を殺した後も続いていく。彼は裁判所で一度は死刑判決を受けるも、未成年ということもあって、30歳を前に釈放されたそうだ。その説明がまた、淡々としたテロップでされる。実際の30歳の小四の姿までを映すことなく映画は終わる。

だから、この映画はすべて思い出なのだ。過去の話なのだ。日本人が台湾に残した日本刀で大人たちが襲撃される場面も、ラジオから流れる人の名前が読まれ続ける場面も、すべてが過去のひりひりとした思い出なのだ。だからこそ、この映画のことを何度も何度も思い返す必要があると思った。過去の鮮やかな時間を、何度も何度も思いだすこと、それは苦しいけれど、でも同時に鮮やかなものなのだと思う。

 

 

 

 

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大学4年間を振り返ってみた

残りわずかで大学生活が終了する。思えば、片田舎から上京して、四年間日本大学芸術学部というすこし変わった大学で時を過ごした。入学当初はアートに関しての知識も、自分なりにものの価値を判断する力も、今よりずっと劣っていた。いま心の中にあって、ずっと大事にしている読書や映画の芸術体験も、この四年間でほぼ培われた。それだけでなく、大切な友人や先生との出会いもあり、本当に運の良い、変わった時間だったと思う。

大学一年生の春だった。私はある先生の授業で『カリガリ博士』という映画を観た。これは一九二十年に制作されたドイツの映画で、ドイツ表現主義を代表する作品のひとつだ。大学に入学した当初の私は、その映画の良さがわからなかった。気色の悪い白黒の映像、意味不明なストーリー、オチもはっきりしない……なんて退屈な授業なんだろう。私は眠かった。けれど、何ヶ月か経って、どういう訳かもう一度頭の中に、あの白黒の映像が浮かんできた。夢を見ているような、不思議な感覚だった。それで、最寄りのツタヤでもう一度『カリガリ博士』を借りて観た。あの夢のような、ふしぎな感覚。シュールレアリスムという概念を初めて知ったのは、その時だったと思う。

それがきっかけになって、私はよく映画を観るようになった。これまではジブリとか、ドラえもんとかしか観なかったけれど。下高井戸シネマ新文芸坐で観たロベール・ブレッソンの『やさしい女』とか、早稲田松竹で観たジャン・リュック・ゴダールの『女と男のいる舗道』とか、新宿シネマカリテで観たエドワード・ヤンの『ヤンヤン 夏の思い出』とか、色んな映画を観て、帰り道ふわふわとした気分で家まで帰った。映画館で映画を観ると、いつも行った映画館や、一緒に行った人のことまで覚えているので、たぶん映画とその場所とかって分けることができないんだと思う。何人かで最前列を陣とってアレクセイ・ゲルマンの『神々のたそがれ』を見に行ったのとか、たぶん一生忘れない……。


美術評論書もいろいろ読んだ。もともと高校時代は美大志望だった時期もあって、美術にはとりわけ興味があった。絵を描くことが小さい頃から日常の一部だった。けれど絵を描くことと見ることは別で、見ることと知ることもまた別だった。絵で使われている技法、時代背景、作者の思想、とか、なんだか漠然と知りたいことがたくさんあった。美術について考えるとき、ここからここまでとはっきり表せるようなことは無くて、感覚的で、抽象的で、そういうのをそのままボンヤリ考えるのが好きだった。図書館の閉館時間ぎりぎりまで、ドゥルーズの『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』なんて読んで、ふむふむなるほどなーとか言って、それでアンリ・ミショーの詩とも近いものがあるよなーと思って、今日はドゥルーズとミショーを借りるぞー、とカウンターに本を持っていって、帰り道の電車の中で読んだり、あるいは、読まずに返しちゃったり……。

それにしても私は図書館によくいた。閉館時間になると、クラシック音楽が流れてくる。それを聴くまでずっといた。その日に読みたいと思うたった数冊の本が、自分のなかの何か、どこにあるのかもわからない何かに反応して、流れのようなものを作っていて、それと付き合いたかった。大学四年になって、就職活動をはじめて、本や映画が実生活で何の役にも立たないことを実感しても、それでも、その世界は私を確かに作っていた。

先日、友人の家に行った。友人も本や映画、哲学、音楽、あらゆるものが好きな魅力的なひとで、部屋には多くの美しい本が置いてあった。プラトンアリストテレスウンベルト・サバ....。ずらりと並ぶ本棚の本たちを見て、友人が言った。

「自分たちは、何にこんなにハマってるんだ?」

ほんとだよ、と思った。どうしてこんなに嵌っているんだ。


小さい頃から漫画を描く趣味が続いていて、最近もまた描いていた。たいてい、漫画に描くものは、その時の自分が考えているものが入り込む。後で読み返すと恥ずかしい。
主人公の女の子が映画を見て泣いている横顔に、私は次のような言葉を添えた。


映画館が好きだった
朝一の劇場には、新聞紙を広げながらコーヒーを飲む観客がいる
それだけで私の休日はじゅうぶんだ

空間の中が芸術に変わる

私が生きている間、あと何度美しいものを見ることができるだろう


そして、漫画の中の彼女はどうしてこんなに自分が芸術に惹かれるのかを考える。
あるとき、彼女は故郷の美術館を訪れる場面で、ふと閃く。


私が芸術に惹かれるのは
海街に生まれ育ったからだ


整合性のない論理だが、おそらくそうなのだろう。自分で描いておきながらそう思った。でもたぶん、そういうことなんだろう。


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